こんにちは。
うつ持ちで、元臨床心理士、統合失調症の家族をケアしていますピケです。
引き続き『もう一度カウンセリング入門』(2021,国重浩一著)を読み進めています。
この本、本当に良書です。感動ものです。
以下、備忘録です。
↓前記事
フリードマンとコームズが『…リスニングというのは受身の活動ではない。私たちが聴くときには、好むと好まざるとにかかわらず解釈しているのだ』と述べていることに、私たちは同意する。リスニングの過程で、セラピストは、意図的にせよ意図的でないにせよ、ある表現を聴くべきものとして選び、ほかは聴くべきではないものとして選択している。(ハイベル、ポランコ)
相手の語りに対して、聴き手の側に、フィルターがあるようなものだと著者は表現している。フィルターとは、セラピストが学んだ臨床的知識であったり、個人的な体験であったりする。
私たちは、自分のフィルターを通してしか相手の話を聴くことはできない。
そのことに、聴き手側が自覚的であるかどうかが問題なのである。
自覚がないままであれば、相手の語りを聴いているとは言えないだろう。
また、話し手には、程度の差はあれど、聴き手が求めていることを話そうとする傾向がある。例えば、子どもたちが体験学習をした感想を大人に話すときを思い浮かべてほしい。「勉強になった」「〜だということがわかって、タメになりました」などと口々に言うのは、大人がそう言ってほしいであろうことを、子どもが悟っているからである(もちろん、本心から言っている子もいるだろうが)。大人であっても、聴き手側が権威者であったりするとこの傾向が強くなる。
聴き手にはフィルターがあるということ、話し手は聴き手の求めるものに応えようとすること、この二つを認識していないと、話し手の話を聴くことはできないのである。
私たちが悩むとき、「ほかの人はどう思うだろうか」「ほかの人なら何と言うだろうか」と言うことが頭に浮かんでくる。そのときに想像する言葉は、かなり辛辣なものになりがちである。誰も認めてくれまいと思ってしまうし、「それはおかしいことだ」「ダメなことだ」「変なことだ」とみんなが言うだろうと思ってしまう。
(略)
そうしたなかで、すべての、または大部分の原因は自分にあるという考えに行きつくことも稀ではない。そうすると、結局のところ、自分自身が頑張るしかない。今までもそれなりに頑張ってきたつもりであるが、それでも不十分だったのだ。だからもっと頑張り続けないといけない、という結論に、いつもたどりついてしまう。
このような思考のループにはまっている方は、カウンセリングに訪れる方には多いと思う(私自身もそうであるが)。
私たちを苦しめる最も辛辣な批判者は、自分自身なのである。自分が自分に向けるまなざしが厳しいということである。(ほかの人に対しては受容的であっても)そのまなざしを自分自身に向けることは難しい。
認知行動療法的にいうと「認知の歪み」ということになるのだろうか。
この歪みについて、本書では、カウンセラーとのやりとりによって自然に変わっていくことができたケースが紹介されている。
カウンセリングの場において、カウンセラーに気遣ってもらったことで、クライエントが自分自身への気遣いができるようになったという。
自分自身を受容することは、自分が他者から受容してもらうという経験があってこそ可能になる。
ひとは、自分が大事にされることで、自分自身のことを好きになれるのかもしれない。
人を受容する基本は、相手が話しているときに、相手に顔を向けて、頷いて、相槌を打つことである。これらは、カウンセラーでなくても、誰でもできることである。
しかしながら、聴いているうちに、こちらも自分の意見を言いたくなる。
似た体験が自分にあれば「私もこんなことがあった」と伝えたくなる。
相手が悩んだり困っていたら、解決できる提案をしたくなるし、助言をしたくなる。
このようにキャッチボールがされるのが、会話の醍醐味である。
だが、話し手が、自分にとってとても重要なことを話したい、それを聴いてほしいと思っている場合にはどうだろうか。
こちらが相談していたはずなのに、いつの間にか相手が話を持っていってしまい、なぜか自分は聞き役側に回っている…という経験は、受容的な人なら覚えがあるだろう。いわゆる「会話泥棒」である。
あるいは、聴き手側が、一方的に主張を始めてアドバイスを押し付けられて困ってしまう場合もある。苦笑しながらこちらは黙るしかない。独演会の聴衆にされてしまうのだ。
会話泥棒や独演会はなぜ起こるのか。
それは、聴き手が「不確かな状態にとどまっている」ことが難しいからではないだろうか。
相手の話を聴いていると、わからないことがいろいろと出てくる。クエスチョンを持ちながら聞き続けるというのはしんどい。
また、つらい気持ちが表現されると聴き手側もつらくなる。真剣に聴くほどつらくなり、自分のつらい気持ちを抱えながらずっと聴き続けるのは、それこそつらい。
だから手早く解決してやりたくなる。
人情とはそういうものだ。
だが、相手の話をしっかり聴くとは、そうではない。
「とりあえず、まずは聴こう」
ということなのだ。
自分が言いたいことはひとまず置いておいて、とにかく聴くことに徹するのである。
その際に、相槌や目線で「聴いているよ」と示すと、相手は安心して話し続けることができる。促されると話し手は嬉しいものである。
このようにして相手の話を聴くことができて初めて、話し手側は「聴いてもらった」という気持ちになる。
聴いてもらったことで「受容してもらった」「尊重してもらった」と満たされた思いになる。
こうした経験が積み重なれば、自尊感情にも良い影響がもたらされることだろう。
ここまでは、「人の話を聴く姿勢を身につけたい」という場合にもすぐに取り入れやすい。
カウンセリングでは、これをもう一歩進める必要がある。
それは「相手の使った言葉をそのまま受け取る」ということである。
「相手の言葉そのもの」とは、その人が口にしたまさにその表現である。つまり、相手が「寂しい」と言ったとしたら、「寂しい」ということである。聴き手にとってより馴染みのある言葉や専門用語に置き換えない。たとえば、「寂しい」を「孤独」「喪失感」などの言葉に置き換えてしまわないということである。
以前、相談記録を書くとき、私はなるべく短い言葉を使おうとしていた。短い言葉は結局専門用語になってしまう。その時点で、クライエントの語りからは離れ、理解から遠のいていたのだろう。自分の言葉や慣れ親しんだ専門用語に置き換えるのは、自分が持つフィルターをあえて使うことになっていたということだ。フィルターを通しての理解が、クライエントの理解であると誤解していたのだろう。
著者は、相手の使った言葉をそのまま受け取る聴き方に徹すると、カウンセラーのキャリアがあった人は、
これまで習ってきた技法をすべて封印されるような体験をする
と書いている。
これは、まさに私が最近経験していることである。
私は10年以上という長いブランクがある。この数ヶ月、オープンダイアローグに興味を持ち、勉強を始めたところである。幾度か参加したオープンダイアローグの実習で、心理士としての勘のようなものはある程度思い出すことができてきた、と感じている。
しかし、私はとても戸惑っている。
「なんの解釈もせずに、相手の言葉をそのまま受け取ること」がいかに難しいことか!
これまでやってきたことでは全く歯が立たないのである。
以前私はどうやっていたのだろうか。
これは、単なるブランクの問題ではないと思う。
元々やっていなかったことなのだ。
どうすればいいか、どうしたらいいのか、迷子のように立ち尽くしている状態である。
だが、私はいくらか安堵している。
この「封印されるような体験」が、私が学びの中に入ったからこそ得られているのかもしれないからだ。
おそらくいくらかマシになるくらいな程度であると思うが、この学びを続けていきたいと思っている。
傾聴、共感的理解、無条件の肯定的配慮、自己一致といった状態は、そこを目指すというところから出発するとなかなか到達することができないのかもしれない。(略)相手の話、それも相手が発した表現そのものを追っていくことに集中することを通じて、その状態に辿り着けるのではないかということである。
著者は、野球に例えている。ヒットを打とうという思いに邪魔されてボールに集中できなくなるが、ボールに集中することでヒットにつながる。森を見るより前に木を見よ、とも言えるのかもしれない。
我が子が幼い頃、小学校の先生に「お母さんが私の話を聴いてくれない」と訴えていたことが幾度もあった。
私は私なりにちゃんと聴いているつもりでいた。確かに忙しくはあった。けれども時間はとっていたはずだった。
どうしてそんなことを言うのだろうか。発達障害の特性があるせいなのか、と考えたりもした。
今思えば、私は彼女の話を聴いているつもりでいたが、実は、会話泥棒であったり独演会を開いていただけだったのだろう。
だから、子どもは「話を聴いてもらえない=受容してもらえていない」と不安だった。
それこそ、発達障害があり、感じやすくて不安が高い子であったから。
もし当時、この本を私が読んでいたならば、子どもが「聴いてもらえた」と感じる聴き方ができたのではないか、と思う。
過ぎたことを嘆いても仕方あるまい。
幸いなことに、子はそばにいてくれている。
これからは、子の話をしっかり聴こう。
話を聴くというのは、簡単に見えて、とても深く、難しい。
おつきあいくださり、ありがとうございました。
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