ぴあけあら

双極症当事者(ピア)で、統合失調症の当事者家族(ケアラー)。日々の記録です。

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対人支援者としての再考〜『もう一度カウンセリング入門』より〜

 

 

 

こんにちは。

うつ当事者で、統合失調症の家族のケアラーでもあるピケらいおんといいます。

 

ある人からの勧めで、ナラティヴセラピーについて少しでも知ろうと思い『もう一度カウンセリング入門』(国重浩一著、2021)を読み始めました。

著者は、ニュージーランドで、ダイバシティカウンセリングルームを開いているナラティヴセラピストです。

比較的薄い本で、心理系のバックボーンのある人には馴染み深い文体で書かれていますし、言葉も平易ですから読みやすいと思います。支援の仕事についていない方々にも、軽い専門書としてオススメです。

 

 

 

 

現役時代(臨床心理士)、恥ずかしながら、ナラティヴを全く勉強したことがありませんでした。

ですが、今わたしが夢中になっているオープンダイアローグというメンタルケアを知るには、ナラティヴセラピーの知識は欠かせないもののようです。

 

 

この記事は、わたしが久しぶりに対人支援者の思考を稼働して、この本を読解し、内容と感想を備忘録として残すためのものです。

 

他の記事とは毛色が違うと思います。

 

 

 


 

 

著者(国重さん)は、支援者が、支援の場において「あたりまえ」としていていること、あたりまえすぎて、自覚もないままでいる、私たちにとっての常識、前提と呼ばれるようなものをまず自覚する必要がある、と主張している。著者はそれを「起点」と表現している。

 

(私たちを取り巻く問題について)私たちは必ずどこかを起点として考察を進めていく。多くの場合、そのような起点があることに気づかないだろうし、疑うこともしない。

 

 

起点とは、自分が生きてきた時代、言語、社会文化的慣習、知識、経験を指す。起点に立って、私たちは思考し、考察しているのである。

 

ということは、起点が別であれば、すなわち、時代が変われば、言語が変われば、文化が変われば、考察は全く異なることになる。「あたりまえ」が異なるのである。

 

「だからといって、自分の起点を変えよということではない」と書かれている。

 

他の起点から考えることは、そう言われただけで簡単にできることではない。では、どうすればいいかを学ぶ必要がある。

 

 

私たちにとって「あたりまえ」なことを再考しなければならないのではないか。

これが本書の出発点のようである。

 

 

 


 

 

私たちはみな多様で複雑な存在であるが、その多様で複雑な人間を支援するのは、困難な作業である。

ゆえに、複雑さを要約して扱いたくなる。

代表例は「エビデンス」「権威者の意見」である。

実はそれらは絶対ではないのだが、それらに疑義を持つと、自分の支援が依って立つ基盤を揺るがすリスクがある。支援者も所詮ただの人であるから、何らかのお墨付きが欲しいと願うのは自然なことだ。

 

 

対人支援を行なっている私たち自身についての考察である。対人支援は、私たちがもつ視点や考え方、態度から始まるということである。

 

 


 

 

支援者は「問題には何らかの原因がある」という視点を持ちやすい。ゆえに、「原因を突き止めれば、自ずと問題は解決する」と考えて(あるいは、気づかないうちに自然とそういう姿勢で)クライエントと会話を始めてしまう。

 

しかしながら、この原因追求スタイルが求める「原因」は、支援者自身の起点によって異なってくる。

 

例えば、不登校の子がいるとする。

トラウマカウンセリングを専門にしている者からは「幼児期における親の関わり方」に原因を求めるであろう。

あるいは、発達障害の専門家からすると「発達障害の特性が、不適応を招いているのではないか」という思想になる。

さらに、精神科医療の専門家は、何らかの精神病の前駆症状を疑う。

 

さて、どのアプローチが有効なのか。どの治療法が良いのか。

それぞれの専門家たちは、自分の正当性を主張する(これは現場ではよく起こり、対立する場合もあれば、複数のアプローチによってクライアントやその家族、環境に混乱が生じて、事態が硬直するか、最悪には悪化することすらある)。支援者自身が、自分が見たいものを見ており、あるいは、見たいものしか見ない、という姿勢により、本来のクライエントの姿を見失ってしまうと言える。

 

 

これは、対人支援を生業にする者にとっては、実に恐ろしいことだと思う。自分が見出したものは実際にはそこになく、かけていることさえ忘れるほど馴染んでしまった色眼鏡が見せているものでしかない、ということになるからだ。

 

だが、先ほどの繰り返しになるが、「眼鏡を外しましょう」という提案はされない。つまり、無理だ ということなのだろう。生きている以上、私たちは自分を取り巻く社会、文化などから自由にはなれないという考え方である。

それならば、異なるメガネをかけることはできるのではないか。

それが、支援者側の姿勢として問われることなのである。

 

 


 

 

さて、支援者が陥りがちな原因追求アプローチは、大体において、解決には結びつかない。「それができれば苦労しないんだけど」ということになる場合がほとんどである。その結果、理想論を振り回すだけの支援になったり、クライアントを袋小路に追い詰めることになってしまうのである。

 

問題を解決するのは、あくまでもクライエントである。問題は問題のまま生きていくのもまたクライエントである。であれば、クライエントが希望を感じられるような支援でなければならない。具体的な解決の道筋でも良いし、そうではなくて漠然とした希望感でも良い。この場合の希望とは、日本語で言うところの「希望」(しばしば「目標」と混同される)ではなく、英語のHOPE、つまり何となくの明るい見通し、なんとかやっていけるんじゃないかという光のようなものである。会話を積み重ね、クライエントが光を感じることができるようになることが必要なのである。

 

 

 

ここで、注意してほしいのは、可能性、希望、動機につながる会話をするということは、それ自体について直接話すことを意味しない、ということだ。うつ状態で苦しんでいる人に、「変化の可能性はありますか?」「希望を持っていますか?」「どんな動機を持っていますか?」などと尋ねるのは、誠に野暮というだけではく、目指すところに全く繋がらないであろう。なぜなら、そのような会話は、可能性を持つことができない、希望などない、そして動機もないということを当事者に再確認させ、より深く落ち込ませる方向に導くからである。

 

これは、不勉強であったわたしにも経験がある。わたし自身の自己満足のための会話であったと、当時のクライエントには申し訳ない気持ちである。

 

 


 

 

こうした支援者自身の自己満足的支援は、かなり多いとわたしは危惧している。

強く危機感を持っているのは、昨今広く行われるようになった、認知行動療法及び当事者研究である。双方とも誠によいアプローチであることは間違いない。特に、当事者研究は、名前の通り、当事者自身が日々の苦労の汗と涙から編み出した傑作と言える。ただ、支援の現場で、聞きかじりの知識により、取り入れていることが非常に多いようだ。支援者が、クライエントを見ておらず、それこそ自分が新しくかけたメガネに夢中になっている様を感じる。実際に、不用意に当事者研究に晒されたことで自死未遂に追い込まれたケースを知っている。支援者の姿勢と、自分がまだ勉強途上であるという謙虚さが、いかに大事であるか、を痛感する。

 

 

対人支援の現場で想定しなければいけないのは、(希望、可能性、動機について)直接的に尋ねられても、その時点ではそのような前向きなことを想像できず、答えられない人々との会話である。

 

至極当然のことであろう。

自分の希望について澱みなく答えられるようになったのならば、カウンセリング卒業のタイミングである。

 

カウンセリングというものは、問題解決という目標に向かう会話だけをする場ではない。その人にとって大切なこと、意味のあること、価値のあることについて、表現してもらう場である。(略)カウンセリングの場を訪れる人は、苦しみを表現し、それがカウンセラーに受け取られることによって、自分自身を受容できるようになるのではないだろうか。そして、自分自身にとって大切な何かを語ることが、次のステップに気持ちを向けることにつながっていくのである。

 

 


 

 

支援者は、時に語られる苦しみに、自身が耐えられなくなることもあるかもしれない。精神分析で言うところの逆転移になるのだろうか。受容とは大変に困難で、しんどい作業である。技術と訓練が必要である。

 

苦しみに寄り添うだけでなく、支援者は、自分とは別の起点に立つクライエントの経験、知識、思考に興味を持ってはどうだろうか。

 

「自分にとって未知の、新しい視点を教えていただくのだ」と考えると、支援者にとってもそこは学びと発見の場になり、会話の潤滑油になるのではないか、とわたしは想像する。

 

人は皆自分だけの物語を持っている。その人の物語を読ませていただくことは、この上なく光栄でありがたいことだと思う。

 

 

 

これまで読んだところで、ナラティヴセラピーは、認知行動療法、特に問題解決志向アプローチ(たとえばブリーフセラピーなど)とは一線を画するもののようだ。

 

 

 

 

その人の持つ物語性を大事にするのは、本来のカウンセリングのあり方だと思う。学生時代に少しだけ学んだナラティヴ分析を思い出した。当然関連があるのだろう。

 

 

第一章だけであるが、非常に興味深い内容であった。

 

 

お付き合いくださり、ありがとうございました。

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