こんにちは。
うつ病当事者で、統合失調症の家族をケアしているピケといいます。
梅雨に入り、台風もあったりで、身体も気持ちも低飛行な日々…
家族は不調でイライラしているし。
もう、いやになっちゃうよー という感じです。
相談支援員さんとのあれこれは、さらに悪い方向に現在進行中。
収束のめどがつかないし、感情的なことを書き散らかしそうなので、いま記事に書くのはやめときます。
↓ 困っております。
そんなこんなで、当事者、当事者家族、支援者。
なんかそれぞれ難しいなあと、遠い目になっているところです。
今日は、そんなことを書こうと思います。
特に、支援の仕事をされている方に読んでいただけたら嬉しいです
目次
- 心理カウンセラーだった頃
- 相手を理解するということ
- 理想を語った演説
- 当事者&当事者家族になって
- 支援者と当事者同士での「理解」の違い
- 支援者が当事者にもなる『Dr.コトー診療所』
- 権力の勾配という問題
- 権力の勾配に無自覚ではいけない
- 溝は越えなくてもいい
- 当事者からの歩み寄り
- 元支援者で、現在当事者のわたしから
- 最後に。支援者のみなさんへ
心理カウンセラーだった頃
わたしは以前、心理カウンセラーとして仕事をしていました。
いわゆる支援者の立場です。
わたしなりに、使命感にもえて一生懸命やっていました。
まあその過労もうつの要因になったのですけどね。
そのときは「当事者に寄り添おう!」と頑張っていました。
でも、今思えば、どこかそれは独りよがりで、未熟でした。
相手を理解するということ
「あなたにわたしの苦労なんてわからないでしょ!」とか。
「子どもを産んだことのない政治家に子育て支援なんてできるのか」とか。
異なる相手を理解することは、わたしたちの永遠のテーマだと思います。
同じ体験をしたことなければわからないと言ってしまえば、そこで全ては終わってしまいます。
「分断」というやつです。
分断は、対立、差別、孤立を呼びます。
↓ YES, WE CAN
個人レベルでは分断上等!ということは沢山あります。
例えば、わたしの場合、趣味仲間で、メンタルへの理解が明らかになくて、差別的なことを言う人がいたら「さよならー」と近づきません。
自分が傷つかないための分断よし。
ですが、簡単に終わりにできない人間関係の中に私たちは囲まれています。
家族、親族、ご近所さん、学校社会、職場など…。
関係を保たざるをえない中で、理解してもらえないことはとても苦しいです。反対にこちらが相手を苦しめることも起こります。
「仲良しこよし」「わたしのことは全部わかってくれるわ」なんてところまでいかずとも、
理解しようと相手に歩み寄ることは、どうしても必要になってきます。
理想を語った演説
カウンセラー時代に、研修の講師をしたことがあります。
保育士さんや学校の先生の研修で、発達障害の子どもについて話していました。
そのときにわたしは、今思えば、赤面ものの話をしていました。
「いくらわたしたちが発達障害について勉強したとしても、わたしたちは、子どもの困り感をすべて理解することはできないでしょう。
親御さんの苦労もわかって差し上げることはできないかもしれません」
「でも、理解したいと思い、理解しようとすることはできます」
「障害を持つ人たちと支援者の間には、確かに溝があります。
お互い断崖絶壁に立っていて、姿が見えるだけで声は聞こえません」
「ですが、わたしたち支援者が努力すれば、崖の高さは少しずつ低くなります。溝は狭まり、深さも浅くなります。
ぴょんと飛び越えられるほどの、かわいい小川になるかもしれません」
当時は本気でそう思っていたし、そう信じていました。
ですが、当事者であり、当事者家族になった今
「そんなに簡単ではないよなあ」
と、つくづく感じます。
当事者&当事者家族になって
わたしは、当事者の会(ピア)、当事者家族の会(家族ピア)に出会い、とても救われました。
同じ苦しみを抱えてきた人たちに、わたしの辛さを初めて理解してもらえた気がして、ホッとして泣けてしまいました。
支援者さんに話を聞いてもらってホッとして、元気になることもたくさんあります。
支援者と当事者同士での「理解」の違い
支援者さんと当事者同士では、理解がどこか違うように感じます。
①垂直の理解か、水平の理解か
たとえですが、支援者さんの、わたしたち当事者に対する理解の方向は、垂直方向です。
これまでどう頑張ってきたかの過去、いま抱えている辛さ、病気の症状、そしてこれから先の未来のこと。
過去・現在・未来と、わたしたちのことだけを一点集中的に深く理解しようとしてくれます。
わたしのイメージでは、上下、縦に伸びていく垂直の理解のように感じます。
一方、ピアの会では、水平方向の理解がされるように思います。
発症した時の混乱状態を話したときには「うちも、症状が最初に出たのは…」「わたしの場合は…」という話が他のメンバーから語られていきます。
そのうちに、わたしのことを「横並びの仲間のなかで起こった出来事」として共有される感覚になっていきます。
深さよりも横という方向で理解されるというイメージです。
②単方向か相互性か
支援者さんの場合、理解の方向は常に一方向です。
支援者さんは常に「理解する」側であり、当事者は常に「理解される側」です。
わたしたちは、支援者さんにしっかり理解してもらい、治療的にも精神的にも福祉的にもケアしてもらえることで力を蓄えて、自分の足で踏み出していけるようになります。
一方、当事者同士では、理解は双方向です。
「自分のことをわかってもらえる」と同時に「相手のこともわかる」という関係性です。
「される側」になり、「する側」にもなる。
「おたがいさま」の関係性です。
このように、支援者さんからの理解と、当事者同士の理解は、違うようにわたしは感じます。
どちらが良いということではなく、
両方を得られることで、当事者はパワーをもらえるのだと感じます。
支援者が当事者にもなる『Dr.コトー診療所』
支援者と当事者のあいだの溝をどこまでも小さくした例が、『Dr.コトー診療所』ではないでしょうか。
わたしは、ドラマ版が好きで、「もう早くあやかさんとつきあっちゃえよ」と中学生のように思いながら見ていました。
さて、無医村の島で医師をしているコトー先生は、医師としての腕は抜群で、島民の健康を守ります(支援をする側)。
その一方で私生活は頼りなく、カップラーメンばかりを食べて看護師さんに叱られたり、漁労長からは「これだからコトーはよぉ」と言われたりもします(支援をされる側)。
コトー先生と島民のあいだには相互理解と相互扶助があり、両者の関係はフラットです。
このように、支援者と当事者のあいだの溝をなくす究極のかたちは、
水平で双方向の関係をつくることです。
つまり、支援者も当事者になるのです。
権力の勾配という問題
現実では、コトー先生のような関係はほぼないだろうと思います。
なぜなら、支援者と当事者の間には権力の勾配があるからです。
支援者は、病院や福祉機関などに所属している場合が多いです。
業務はひとりで行うとしても、守ってくれるバックがあります。
一方、当事者はひとりです。
病気、障害、経済的困窮など、サポートが必要な弱者の立場にあります。
さらに、支援者は常に「与える側」、当事者は常に「受ける側」です。
自然とそこに権力関係が生じます。
わたしが当事者になって初めて気づいたのは、
権力の勾配は、思っている以上に大きいということです。
権力の勾配に無自覚ではいけない
支援者と当事者のあいだには、対等ではない構造があります。
特に医療者は、社会的な地位が高い職種ですから、もともとが権力の上位にあります。
そのことを自覚しないで、いくら「当事者に寄り添う」とか「当事者を理解しよう」としても無理があります。
例えば、ビルの高層階の窓から、下を歩くひとを見ても、頭しか見えません。
一階まで降りなければ話すこともできないのです。
目線を合わせてはじめて見えてくるものこそが、当事者の真の姿です。
そうなってようやく当事者は「わかってもらえた」という気持ちを持つことができるのです。
わたしが当事者として支援者さんにお願いしたいことは、次のことです。
・なにもしていなくても、自分は権力側にあるということを自覚してほしい
・権力の座から降りて、目線を合わせる努力をしてほしい
・当事者のすべてをわかったつもりにならないでほしい(お互いに人間ですから、わからない部分があるのは当たり前)。
溝は越えなくてもいい
現役時代のわたしは、当事者に寄り添えば、両者の溝すら越えられると思い込んでいました。
ですが、それは違いました。
やはり支援者と当事者の間には溝はあり、たとえ小さくなることはあっても、決して消えることはありません。
ですが、それでいいのだと思います。
なぜならば、支援者には支援者にしかできない理解の仕方があるからです。
たしかに支援者さんは、当事者同士にどうやってもかなわない部分があります。
当事者が人生を生き抜いていく上で持続的な安心感を得られるのは、やはり当事者同士の結びつきだと感じるからです。
けれども、専門知識と経験をもとに、当事者を深く理解することは、支援者にしかできないことです。
たとえコトー先生にならなくても、わたしたちは十分嬉しいし、ありがたいのです。
当事者からの歩み寄り
これまで支援者さんが当事者のほうに近づいてほしいという話をしてきました。
ですが、当事者のほうからも支援者さんに近づいていく必要もあります。
人間関係は、一方だけで作るものではなく、双方が協力して作っていくものだからです。
多くの当事者は、支援者さんが寄り添ってくれて、理解しようとして下さることを熱烈歓迎しています。
ですが、なかには「どうせわたしのつらさなんてわかんないでしょ」という当事者もいます。
彼らには
「自分の辛さを否定されたり批判されたり軽んじられるのではないか」
と不安があるからかもしれません…
そういう経験をこれまで繰り返し味わってきたのでしょう。
まあ当事者のわたしから見ても、「やなやつ〜」と思うことは結構あります、はい。
そういう人たちに正攻法でいっても絶対うまくいきません。
「思いがあれば受け入れてもらえる」なーんてドラマか漫画のファンタジーの世界です。
返り討ちにあい、支援者自身が傷ついてしまうことはとても多い。
対人援助職は自分が傷を負うリスクのある危険な仕事です。
元支援者で、現在当事者のわたしから
元支援者で、当事者であるわたしから、支援者さんにお伝えしたいことがあります。
・ひとりでやろうとしないで(せっかく組織に所属しているのですから、活用しましょう)
・焦らず時間をかけて(早いとわたしたちはついていけません)
・自分がこの人を支えるんだ、とかいうのはやめて(そこまでわたしたちの人生を背負われても困る。はっきり言って迷惑)
・当事者から勝手に歩み寄って来てくれることもあるので大丈夫
・まあ無理なら無理でしょうがないと、別の支援者に任せるとかしてください(いわゆる相性とかタイミングとかがやっぱり大きいです)
最後に。支援者のみなさんへ
わたしは当事者であり、当事者家族です。
これからも医療関係の方々、福祉の方々のサポートを受けながら社会でがんばって生きていくつもりです。
わたしたち当事者は、支援の対象者ですが、支援者のみなさんと同じ人間です。同じ共同体に所属している対等なメンバーでもあります。
これからもわたしたちが幸せに生きていくために、どうぞお力をお貸しください。
よろしくお願いします。
読んでいただきありがとうございました。
よろしければ、またいらしてくださいね。