ぴあけあら

双極症当事者(ピア)で、統合失調症の当事者家族(ケアラー)。日々の記録です。

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診断名・障害名とアイデンティティ〜『もう一度カウンセリング入門』より〜

 

 

 

 

こんにちは。

 

うつ歴22年の当事者で、統合失調症の子どものケアをしています、ピケらいおんといいます。

 

 

引き続いて『もう一度カウンセリング入門』(2021,国重浩一)を読み進めます。

 

 

 

今回は、アイデンティティを語ることについて です。

 

 

アイデンティティとは「わたしはこういう人です」というものです。

わかりやすい例は自己紹介です。

 

 

わたしは「うつ当事者で、統合失調症の子どものケアラー」と自己紹介しました。

これは、このブログ内でのわたしのアイデンティティと言うことができます。

 

 

 

 


 

 

人生の標準的な路線のうえを走っているとき、言い換えれば、ごく普通と思われるような人生を送っているときには、自分についての描写を相手に伝えるのはそれほど難しいことではない。

<略>

 

人生の標準的な路線に乗っていると感じられないときの自己紹介は、<略> 居心地の悪さを伴う。学校にちゃんと通えていない、定職に就いていない、離婚した、発達障害がある、持病があるといったことが生じた場合、私たちは、自分が何者かをわかってもらうためには、そこを伝える必要があるのではないかと思ってしまう。そのとたんに、それを伝えたら相手は自分をどのように見るのだろうかということが気になっていく。

 

自分は何者なのかを示す描写は、自分がどのような存在であるかを自他に対して宣言するようなものである。そこでは、人が自分にどのようなまなざしを向けるのだろうかという不安が伴う。

 

 

 

筆者は、人生の標準的な路線を走っている人の自己紹介例として「高校生です」「大学生です」などを挙げている。筆者に倣って私も考えてみたが、例えば、「主婦です」は言えても「主夫です」は言いにくいのではないかと思う。なぜなら、主夫は、日本社会では人生の標準的路線とみなす人が少ないからだ。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

私のブログは、メンタルヘルス関連の記事を発信しようと開いたものである。ゆえに、私のアイデンティティとして「うつ当事者であり、当事者家族でもある」ことを表明することにした。

 

 

 

メンタルの問題については、医師などの専門家や当事者本人が社会に発信するようになり、認知は広がっている。しかし「知ってはいるが他人事」という人は多いと思う。そしてスティグマ(偏見)は根強い。であるから、自分がメンタルヘルス領域の住人であると宣言するとき、私をネガティヴに捉える人もいるかもしれない(いや、いるだろう)。だから、ブログで自己紹介をするときには、いつも一刻の躊躇を伴う。

 

 

それでも、自己表明を続けるのは、自分の意見がどこからきているのかを明確にする必要があると考えるからだ。当事者であるから、あるいは、当事者家族であるから、あるいは当事者でもあり当事者家族でもあるから、だから、こういう感覚を持ち、こういう考えを抱くのだ、と説明したいのである。アイデンティティを記事の根拠として添えることで、私が伝えたいと願う記事の内容が、読んでくださる方に伝わってほしい。それゆえに、毎回アイデンティティを宣言している。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

ひとたびうつ病になると、「うつ病になった人」というアイデンティティを自分の中に取り込んでしまうことがある。<略>

「私、うつ病なんです」「私、不登校なんです」「私、発達障害なんです」といった表現では「私=うつ病」ということになってしまう。そう、診断名や障害名は、その人が誰なのかというアイデンティティとなるのである。

 

 

 

前述の通り、私は、メンタルヘルスの当事者であり当事者家族であると自ら表明しているのだが、実は最近、違和感を覚え始めている。私はそれだけではない、と主張したくなるのだ。もちろん、それらは私を構成している重要な部分である。しかし、それは私の一部にしかすぎない。にもかかわらず、自己紹介を繰り返しているうちに、まるでそれが私のすべてであるかのように自分で錯覚する感覚がある。

 

 

同じように、私の家族を誰かに紹介する時に「統合失調症があって」と説明することがある。もちろん「彼女≠統合失調症」である。だが、他者に繰り返し説明していくと、私自身の中で「彼女=統合失調症」の図式が固まっていくのを感じる。

 

 

 

「私=うつ」ではないし、「彼女=統合失調症」ではないのだ。

 

私自身は「うつの人」として括られたくないと憤る反面、子どもには「統合失調症の人」と括ろうとするのである。なんとも勝手な話だ。

とにかく、診断、病名、障害では、その人の「人となり」を表すことはできないと、広く知ってほしいと思う。

 

 

 

 


 

 

 

 

六年前に闘病の末に亡くなられた小林麻央さんのことは、ご存知の方が多いだろう。彼女は、ブログの最初に主治医から「癌の陰に隠れないで」と励まされたと書いてる。そして、アイデンティティについても記している。

 

 

 

 

素晴らしい先生との出会いに
心を動かされました。

その先生に言われたのです。


「癌の陰に隠れないで」



時間の経過とともに、
癌患者というアイデンティティーが
私の心や生活を大きく
支配してしまっていたことに
気がつきました。
 
 
〜 小林麻央オフィシャルブログ Kokoro.  より 〜

 

ameblo.jp

 

 

麻央さんは癌患者でもあったが、女性であり、妻であり、母親であり、他にもさまざまなアイデンティティを持っていただろう。

 

 

私も、うつ当事者で当事者家族でもあるが、たくさんの私がいるのだ。それを自分で十分に認識しながら、このブログでは、「当事者かつ当事者家族」というアイデンティティを表明していきたいと思っている。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

ここで、「私は○○です」という宣言文のように受け取れる表現の重みについて考えてみたい。この描写は過去についてのものなのだが、将来にもつながってしまうのである。

 

なぜ「アイデンティティ」を重要視するのかを端的にいえば、アイデンティティは「今」のことだけではなく「将来」のことでもあり、その人のこれからの人生に大きな影響をもたらすからなのです。前向きなことを示唆するアイデンティティと、否定的なことを示唆するアイデンティティでは、その人が抱く将来像、つまり自分が将来どこに到達できるかという漠然とした期待に、大きな差が生じると容易に想像できるでしょう。将来に向かう未知の旅路を支えてくれるのは、個人が自分に向けることのできる前向きさです。<略> そのため、できないと思い込んでしまうようなアイデンティティではなく、困難を乗り越えてでもやっていける可能性を抱かせるようなアイデンティティを作り上げることが求められるのです。  〜伊藤伸二・国重浩一編著『どもる子どもとの対話』より〜

 

 

 

私は、以前から、家族会など、必要だと思う場面で、自分がうつ当事者であることを話してきた。だが、打ち明けるのは非常に辛いことであった。ところが、今は、このように不特定多数の目に留まるかもしれない場であっけらかんと書いており(それほどあっけらかん、ともしていないが)、座談会や勉強会では、あえて自分から当事者であることを話している。

 

 

以前と今とで何が違っているのだろうか。気づいたのは、うつに対する自分の気持ちの変化である。

 

 

昔は、自分のうつをとても否定的にとらえていた。うつであることが、自分が社会的弱者であり不適応者である烙印のように感じて、話すのが大変つらかった。

 

今は「私はうつは治らないだろう」という心持ちになっている。開き直りと言えるのかもしれない。変化の要因の一つは、うつ当事者であることを利用してこのブログを書いているからだろう。自らのうつを、自分で利用しているという感覚は、うつよりも私自身が上位であると思わせてくれる。麻央さんと同じように、「うつの陰に隠れなくなった」ことで、自分自身の人生を取り戻せてきたように感じる。

 

 

辛い出来事も、悲しい体験も、病気も、障害も、私の一部ではある。けれど、私という人間は、もっと豊かで広い。そちらに目を向けるなら、うつである部分なんて、ほんのちっぽけであって、そこにこだわる必要はきっとないのだ。

 

 

メンタルの病気を持つ方々が、自らの病気の陰に隠れそうになっている自分をぜひ見つけ出してほしいと思う。誰もが必ず見つけられると信じている。

 

 

そして、周囲の方々、支援者のみなさんには、診断名、病名、障害名ではない「その人がどういう人生をどのように歩んでいるのか」という「人となり」に目を向けてほしいと願っている。

 

 

 

読んでくださり、ありがとうございました。