こんにちは。
引き続き『もう一度カウンセリング入門』(2021,国重浩一)を読み進めています。
人の話を聴くのは、カウンセラーだけが行う専門的な行為ではありません。
わたしたちはみな、普段から人の話を聴き、自分の話も聴いてもらっています。
人の話を聴くとは、本来どういうことなのか。
自分は、大切な人の話をちゃんと聴いているだろうか。
聴いているつもりでいて、実は聴いていなかったのではないだろうか。
立ち止まって考えさせられる本です。
あとがきを見ましたら『こころの科学』(心理系の雑誌)の連載だったのですね。こころの科学、懐かしいなあ〜今もあるんですね。
各特集の専門家の記事が、バランスよく載っていますよ。バックナンバーで、興味ある号を取り寄せられます。
私たちの語りには、大きく分けて二つの側面があると考えることができる。それは、具体的に何をしたのかという「行為」の側面と、それがどのような「意味」をもっているのかという側面である。
著者は、「行為の風景」「意味の風景」という語で説明しているが、ここでは、簡潔に「行為」「意味」としよう。
何が起こったのかという出来事(行為)にプラスして、その出来事が自分にとってどのような意味があったのか(意味)が加えられて、初めて「語り」となる。
例えば、「〜ということがあった」というのは実際に起こったことだけを話している(行為)。
それに加えて「私にとってはこういう意味があった」というのが「意味」である。
「行為」と「意味」は対なのだ。
けれども、実際の会話では、行為は語られても、意味は語られることは少ない。
すると、聴き手は、聴き手自身の「意味」を組み合わせて解釈してしまう。
ここで、筆者は自身の体験を例にしている。
コロナ禍で、ニュージーランドへの帰国が足止めになり(著者はニュージランド在住)、日本のホテルに五ヶ月滞在することになった(行為)。
この出来事だけを話すと、多くの人が「大変だったね」と同情してくれる。
しかし、実は著者にとってこの五ヶ月間は、長い期間日本に滞在することができ、普段なら参加できないオンラインのワークショップもできて、とても良い時間だった、と感じている(意味)。
「大変だったね」という多くの聴き手が言ったのは、聴き手自身の「意味」(それは不便で、不安な思いをしたに違いない)を加えていたことになる。
私が懸念するのは、「たいへんな状況でたいへんと感じない人もいるのだから、あなたもそうあるべきだ」というような教訓めいたことが、苦しんでいる人に向かってしまうことである。
<略>
(一般的ではないかもしれない)私の「意味の風景」をもって、私の体験を理解してほしいと思う。
筆者が言っているのは、話し手が抱える苦悩に対して
「それくらいのことで落ち込むなんて」
「もっと大変なひともいるんだぞ」
「わたしたちの時代はもっと苦労したんだ」
という聴き手側の反応であろう。
これは、聴き手側の意味の付与によるものである。
話し手にとって
どれくらい大変でつらいことなのか
どれほど絶望的なのか
(あるいは、逆に大したことないのか)
は本人にしかわからないことなのである。
余談であるが、よく「神は乗り越えられない試練は与えない」という言葉を例に出す人がいる。
励ましのつもりで言うのであろうし、実際にその言葉で救われたという話も聞く。
競泳の池江璃花子選手も、白血病からの復帰会見で、そのように話していたと記憶している。
しかし、それが逆に「だから乗り越えられるはずだ」という圧になり、本人をかえって苦しめることになる場合もあるとわたしは思う。
ちなみに「神は〜」は新約聖書の引用である。そして、この言葉には続きがある。
“神は、耐えられない試練は与えません。むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道も与えてくださいます”
<コリント人への手紙一より>
つまり「神に依り頼むことで、脱出できる」という意味なのである。
決して「だから頑張れ」という意味ではないことを付記したい。
重い話になるが、私は実母と色々あり、長い間、全く連絡を取っていない。こちらの連絡先、携帯番号も知らせていない(行為)。
これを話すと、大抵の人は「辛いわね」と言ってくれる。
中には眉をひそめて「どうしてそんな親不孝を」「許してあげて」などと言う方もいるが、そのことは今は置いておく。
実は、私にとっては、実母と絶縁していることを「安心している」気持ちが大きい(意味)。
母は侵襲的なので、「いつ私の家庭にグイグイ踏み込んで、家庭を混乱させるかもしれない」という不安から解放されているからである。
残念だという気持ちはあるが、私はこの状況がベターだと納得しているのである。
だが、この気持ちは一般的な親子の情ではないだろう。なので「安心」という私の意味は話しにくい。無駄に話がややこしくなるし、非難されるかもしれない。「辛いわね」と言われると「そうですね」と濁して終わりにする。
それでも「実はほっとしているのだ」と、話すことも稀にある。
それは、「この人ならきちんと話を聴いてくれる」と思った人に対してである。
こういう人に出会えることはとても少ない。
聴いてくれるはずと思った支援者から強く非難されて傷ついたこともある。
そういう経験の中で、母との関係に対する、私にとっての意味は、ますます話せなくなっている。
「話さない」のではなく、「話せない」というのは、孤独である。
往々にして、「意味の風景」の語りとは、話し手が自分の内面に向き合い、自分が感じていること、考えていることなどを探りながら表現していくようなものとなる。
確かに「母とのことは、実はほっとしているのだ」と打ち明けることができるたびに、私は自分自身を納得させる作業をしていると感じている。
自分の深いところを探ると、やはりこのような関係は寂しい気持ちがある。
だが、聴いてくれる人に意味を語るとき、
「色々な状況を鑑みたらこれでいいのだ」
「自分の選択が正しかったのだ」
と再確認して、ほっとしているのである。
だから、私は、母とのことについて、意味を語らせてくれる人に出会ったときには「話を聴いてもらえた」とありがたく思うのである。
「意味の風景」は、見事にまで人それぞれなのである。
その通りである。
読んでくださり、ありがとうございました!