ぴあけあら

双極症当事者(ピア)で、統合失調症の当事者家族(ケアラー)。日々の記録です。

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家庭内で対話をすること

 

 

子どもが調子を崩しています。

あることがきっかけで(家庭外のことです)、心の傷の蓋が開いてしまった感じです。

 

 

昨夜は統合失調症の症状そのものが強く出ているわけではなく、むしろ話をしっかり聞いてやった方がいいという印象でした。

 

自分から話をしにきていて、話したがっている。

 

ならば、対話として彼女の話を聞いたらどうだろうか、とわたしは考えました。

 

 

・話をとにかく聞く。

 

・認識が歪んでるな と思っても、「そうじゃないでしょ」とはせず「そう思えるのはつらいだろうな」と思いをめぐらしてみる。そしてそれをIメッセージでやんわり返す。

 

・結論が極端に飛躍してると思っても、「こんなふうに考えるというのは、過去にもしかしたら同じようなつらい経験があったのかもしれないなあ」と想像してみる。これもIメッセージでふんわり返す。

 

 

そうしているうちに気づいたのは、自分の気持ちについての言葉は、常に「わかんない」となること。

 

 

傷が深くて、パニックになっているから今だけそうなのか

それとも

普段から彼女は自分の感情の認識が細やかでないのか。

 

 

彼女が、繊細で、感じやすく、傷つきやすいことは確かです。

 

けれど、まさか、ここまで言語化ができないとは、ここまで感情の自己分析ができないとは、内面を語る言語が貧しいとは、思っていなかったです。

 

 

もともと彼女が持っているものなのか、病気による一時的なものなのか。

 

 

もっと表現が豊かな子だと、わたしが勝手に思っていたようでした。違っていたみたいです。

 

 

ショック…というほどではないけれど、驚きました。

 

 

 

親子は、それまでの関係の歴史があるし、思いが強すぎるので、対話は難しい とオープンダイアローグの本でも言われていることです。

 

実際、いい対話にならなかったと思います。

そもそも、対話になっていたかもかなり疑問。

 

わたしが超初心者なせいも大きいですね。

 

 

さらに、内面を語る言語をあまり持たない人に、対話ってどこまで有効なのだろうか と考えさせられました。

 

 

こちらがかなりバテました。

ポジティブな可能性を感じさせるような問いをするのって、ほんとに大変です。

 

それから、メンタル絶不調の状態の人にとっては、長時間の対話は負荷が強いのではないか、と思いました。

 

 

 

「で?母さんは何を聞きたいの?」

 

となり、終了としました。だいたい40分後くらいです。

 

彼女には「対話するよ」と言って始めたわけではありませんから、いつもと違ったやりとりは、疑問に感じたでしょう。

 

「何が聞きたいの?」という問いは、この対話が無目的である ということが彼女に伝わっていたということなので、まあまあ、対話とも言えたのかな、とも思いました(結論を出そうとしない、対話を続けることが対話の目的なので)。

 

彼女も最悪のところからちょっと浮上していたので、少なくとも害にはならなかったようです。

 

一晩経ちました



 

 

 

 

 

一晩経って、今朝。

 

 

また昨夜と同じような状態になりました。泣き崩れてパニック。

 

 

さすがに、わたしは、もう対話はきつい。無理。

 

 

ということで、「彼女の話を聞きながらもわたしの意見も伝える」いつもの会話にしました。

 

でも、

 

・話は遮らない。

・間をとるようにする(沈黙の時間に耐える)。

・Iメッセージで伝える。

・批判・否定はしない(「でもね…」と言わない)

・アドバイスはしない(「わたしだったら〜するかもしれないなあと思う」くらいな感じにする)

 

は気をつけました。

 

 

 

今朝も、まあまあ持ち直した感じでした。

まだまだ、浮かない様子ではありますが、午後に訪問看護さんもきてくださるので何とかなってほしいです。

 

 

 

 

 

 

 

昨夜の家庭内対話の感想です。

 

 

①対話は、一対一で場を保つことは難しい。

 

慣れとか技術に問題ではなくて、対話そのものが集団で場を保つからこそ成り立つ感じがしました。

 

一人では場を支えることがかなりしんどいですね。

心が不安定な人の場はすごく不安定になります。

それを支えるには、複数人が必要な感じです。必ずしも専門家でなくていいのだと思います。

 

 

②不確実性に耐えるのは、家族にはすごくしんどい。

 

終着駅がない電車は、不安ですね。対話は無目的ですから。

こちらは説得したくなるし、安心の方向に無理に持っていきたくなる。

どうなっていくかわからないまま、それでいい というのには、耐性が必要な感じです。

 

 

③ポリフォニー(多声性)がない。

 

いろんな意見、いろんな見方が出てきません。

やはり対話にはポリフォニーが大事だと思いました。話が広がっていきませんから、行き詰まります。行き詰まりを何とかしよう、広げようと、一人で四苦八苦します。でも一人では意見も一つだから限界があります。

もし夫がいたとしても、ポリフォニーにはならないでしょう。関係が近すぎるので。

兄弟とか親戚とかがいるといいかもしれません。

 

 

 

結論としては

 

家族だけでの対話はかなり無理。

ただし、対話「的」な会話なら努力次第でやれそうな感じがしました。

それでいい、というより、それがいいのだと思います。家族ですものね。

 

 

対話は、理論とその背景にある思想を取り入れて、自分流のものを作っていかなければならないようです(受け売り)。

 

対話「的」も同じです。

 

小手先のテクニック、良さそうな語彙を取り入れるという程度では、相手に見透かされるので対話になりません。

 

共感すること、否定・批判しないこと、不確実性に耐えること。

そのための思想を学ぶことが必要なようです。

 

 

 

読んでくださり、ありがとうございました!